【ネタバレ】映画『夜は短し歩けよ乙女』3つの改変について考察してみた

ナルホドくん

あのキュートでポップな青春小説の映画があるってほんと?

 

映画「夜は短し歩けよ乙女」は、森見登美彦著の同名小説を原作とした

アニメーション映画になります。

 

第41回オタワ国際アニメーションフェスティバル長編部門グランプリ、

第41回日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞を受賞しており、

国内外で高い評価を得た作品です。

 

一方、ネットでは

「ストーリーがわかりにくい」

といった意見が散見されています。

 

なんとこれらの意見は原作小説を未読者だけでなく、

原作既読者からも発せられているのですから驚きです。

 

思えば著者自身も原作を既読でしたが、初めて映画版を観た時は

今ひとつ内容を理解しかねていたような気がします。

 

なぜこのような事態が起きるのでしょうか。

 

著者は映画独自の三つの改変が原因であると考えています。

 

これら改変の意図を考察し、

【より多くの人に本作品に興味をもってもらえるようにする!】

これが本記事の目的です。

注意
本記事ではネタバレを含みますのであらかじめご了承ください。

 

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展開の早い映画版

 

前述したように本作品は

「夜は短し歩けよ乙女」

という小説をもとに製作された映画です。

 

引用:TOHO animation チャンネル

 

映画には改変があると言ったものの、原作も映画も大筋では同じです。

主人公である先輩が、後輩の黒髪の乙女と恋仲になるために

東奔西走するという内容になっています。

 

この物語が普通の青春ストーリーと違う点は、

二人が多くの不思議な出来事に遭遇することです。

 

三階建て電車での飲み比べに、命を掛けた我慢大会、

ゲリラ演劇の勃発する学園祭、果ては風邪の大流行によって

京都がゴーストタウンと化します。

 

元々、原作で上記の四つの出来事を一章ごとに語るという形式が

とられていました。

 

それに対して映画では、これらが一夜のうちに起きたこととされています。

 

それぞれ単体でも奇妙な出来事であるのに、

全て一夜のこととして語られていれば

「わからない」と思われても不思議ではないでしょう。

 

つまり「わからない」原因はストーリーの展開が早すぎると言えます。

 

ではなぜ映画ではこのような構成にしたのか。

著者は、以下の三つの改変がこの謎を解くヒントだと考えています。

 

内容を理解するためのヒント

● 夜明けの場面がラストシーンのみになっている

● 「ラ・タ・タ・タム」がラストまで先輩の手元にある

● ゲリラ演劇「偏屈王」を中心に展開していく学園祭

 

これらについて考察することで、

構成の意図を明らかにしていきたいと思います。

「夜」が示すもの

 

一つ目の改変は、

【夜明けの場面がラストシーンのみになっている】

ということです。

 

原作では夜明けの場面が二回あります。

第一章の飲み比べのラストと最終章のラストです。

 

一方で映画は飲み比べ後の夜明けがカットされ、

すぐに次の章にあたる場面へと移ります。

また映画ではここだけでなく、他の章の変わり目も全てカットされていました。

 

これによって一夜のうちに四季が巡り、

不思議な出来事が次から次へと発生するという映画独自の展開がみられました。

 

MEMO
原作と映画では夜明けの場面の回数が違う

 

作中、登場人物の一人が乙女に

「君といると夜が伸びているように感じる」

と語るなど、「夜」の長さについて触れられています。

 

どうやら映画において「夜」というのは重要な意味をもっているようです。

しかし、「夜」とは一体何を表しているのでしょうか。

 

「夜」の正体とは【先輩の空想、あるいは夢である】と著者は考えています。

著者がこのように考える理由は三つあります。

1.空想の中であれば、どんな奇妙な出来事が起きても不思議ではないから

2.空想の主が先輩なら、想いを寄せる乙女が「夜」の中で活躍することに

納得できるから

3.そもそも「夜」という言葉自体が夢や空想をイメージさせるから

 

夜明けの場面をカットすることは「夜」の連続性を示し、「朝」と

「夜」の境界を明確にするという意図が伺えます。

 

要は、どこまでが空想の中の話で、どこからが現実の話かということを

わかりやすくするための改変ということです。

 

ナルホドくん

映画内で描かれていたほとんどの出来事が、先輩の空想だったなんて先輩はすごい想像力でビックリ!

 

それでは長い「夜」を終えた先で「朝」に何が起きるでしょうか。

そう、先輩と乙女が出会いを遂げるラストシーンです。

 

この場面では、手を取り合い夜明けの空を飛行する

二人の様子が描かれています。

「夜」が長かっただけに、この「朝」の場面はとても印象深いシーンです。

 

現実を表す「朝」の中で手を取り合っているということは、

物語の果てに二人が結ばれたということを示しているのでしょう。

 

このラストシーンの意味を強調することが、

夜明けの場面を一回のみに改変した目的です。

 

本節についてまとめましょう。

 

MEMO

本作品における「夜」とは?

1.映画版は全ての出来事が一夜のうちに起きたことにされている

2.「夜」とは先輩の空想を表し、「朝」は現実を表している

3.長い「夜」によって「朝」の印象を強めている

 

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欠け合う二人

 

二つ目の改変は

【絵本「ラ・タ・タ・タム」がラストまで先輩の手元にある】

ということです。

 

原作では古本市の話で乙女の手元へと渡るのに対し、

映画版では物語のラストまで先輩の手元にあります。

先輩が乙女に「ラ・タ・タ・タム」を譲る場面がカットされたからです。

 

原作において前半の見どころであるこの場面が、

なぜ映画ではカットされてしまったのでしょうか。

 

これを考察するためのキーワードが、絵本の「ラ・タ・タ・タム」です。

 

著者は、この絵本が彼らの欠けているものを表し、

変化を促す存在であると考えています。

 

ナルホドくん

先輩の欠けてるものはなんとなく想像つくけど、乙女の欠けてるものって何?

 

 

先輩と乙女に欠けているもの、変化のタイミングを確認しましょう。

 

好奇心旺盛であらゆる人と「ご縁」を結んでいく乙女。

 

偶然によって多くの人との繋がりを得た彼女でしたが、

自ら働きかけて「ご縁」を結ぶという意識が希薄でした。

彼女には【自発的なご縁】が欠けていました。

 

彼女に変化が起き始めるのは古本市の開催からです。

 

古本市の開催を聞いた彼女は、

「ラ・タ・タ・タム」の存在を思い出します。

 

いつの間にか無くしてしまったこの絵本を

「再び手にしたい!」

と彼女は自らの意思で思い始めるのでした。

 

そんな乙女に対し、先輩に欠けているものは【行動する勇気】です。

 

彼には乙女と恋仲になりたいという明確な意思があるものの、

直接的な行動を起こせていませんでした。

 

先輩も「ラ・タ・タ・タム」の存在によって変わり始めます。

 

彼は乙女が探しているこの絵本を手に入れ、

渡すことで彼女と直接的な関わりを持とうと計画します。

 

MEMO

黒髪の乙女と先輩に足りないもの

乙女:特定の誰かと繋がりたいという意思

先輩:行動する勇気

 

上記より「ラ・タ・タ・タム」が二人の変化を促す存在だと

筆者は考えたのです。

 

しかしなぜ映画では、ラストまで先輩の手元にあることに

改変されたのでしょうか。

 

その理由は、先輩が古本市の話を通じて【行動する勇気】

を手に入れたからです。

 

彼は古本市の後、学園祭で舞台ジャックを決行して

乙女との共演を果たします。

 

この行動は彼女に先輩と【ご縁】を結びたいという想いを

芽生えさせました。

 

そしてラストに二人は出会うわけですが、

朝焼けの中の飛行を終えた二人の傍らには「ラ・タ・タ・タム」があります。

 

つまりこれは、「ラ・タ・タ・タム」によって表されていた二人の欠乏が

満たされたことで、巡り会えたということを表しているのでしょう。

 

そのため映画ではラストまで「ラ・タ・タ・タム」が先輩の手元に

あることに改変されたのです。

 

「偏屈王」中心の学園祭

 

三つ目の改変は

【「偏屈王」という演劇を中心に学園祭が展開されている】

ということです。

 

原作の場合「偏屈王」は当初、あまり重要視されていませんでした。

物語の進行に合わせて「偏屈王」は、徐々に注目されていきます。

 

一方の映画では最初から重要視されており、

「偏屈王」を中心に物語が進行していくという違いがみられます。

 

この「偏屈王」は突発的に短時間で行うゲリラ方式の上映を繰り返し、

回を追うごとに人気を博していきました。

 

ストーリーはこうです。

運命的な出会いによって恋に落ちた偏屈王とプリンセス・ダルマ。

しかし偏屈王は突如、行方不明となってしまう。

愛する人の身を案じたプリンセス・ダルマは、

手がかりを求めて様々な人々の元をを訪ねる。

多くの困難を乗り越え、二人は再会を果たすのであった。

定番といえば定番の内容です。

しかし、演劇中心の展開に改変されているということを考えると

重要な意味をもってきます。

 

演劇とは創作物です。それはある意味、「夜」と同様に空想の話ともいえます。

 

つまり先輩の空想である「夜」の中で、

「偏屈王」というもう一つの空想が展開されているのです。

 

ただ「偏屈王」は先輩の意思とは関係なく展開されていたようです。

 

プリンセス・ダルマを演じる乙女がキスシーンを行うことを知った先輩が、

「自分の思い描いていた台本ではない」

と述べることからそれが伺えます。

 

ナルホドくん

この出来事をきっかけに先輩の「ロマンチックエンジン」に火がついたよ!

 

彼は乙女とのキスシーンを演じるべく、舞台ジャックを決行します。

そして、舞台ジャックの成功により「偏屈王」の台本は

この「夜」物語へと受け継がれたのです。

 

実際、乙女はこの共演後に先輩に好意を抱き始め、

先輩は病に倒れて音信不通となってしまいます。

乙女は方々を訪ね歩き、困難を乗り越えて先輩のもとへたどり着きます。

 

「夜」と同様に空想である演劇をストーリーの中心に置き、

舞台ジャックを行わせることで今後の「夜」の展開を暗示する。

 

これが三つ目の改変の意図だったのです。

 

まとめ

 

本文ではストーリーの理解を困難にする可能性がありながらも、

なぜ映画では一夜の物語としたのかということについて考察してきました。

 

結局、原作と映画のどちらがオモチロイのかということですが、

両者ともにオモチロイというのが著者の感想です。

 

なぜなら両者がお互いの足りない部分を補い、

双方のオモチロさを助長しているからです。

 

映画ではジェットコースターのような展開によって

いつの間にか作品の中に迷い込んだかのような没入感を味わえます。

 

他方で原作には、声や映像では表現しきれない活字による

【森見ワールド】を味わえるという良さがあります。

 

ナルホドくん

映画と原作のそれぞれで楽しめるなんてお得だね!

 

上記は両者の良さの一部に過ぎません。

ぜひ両者を観て、読んで自分だけのオモチロさを発見してみてください。

 

以下で各節のポイントを述べて本記事を終わりとします。

 

本記事における各節のポイント

一節:ストーリーがわかりにくいのは展開が早いから

二節:「朝」 = 「現実」、「夜」 = 「(先輩の)空想」

三節:「ラ・タ・タ・タム」は二人を結ぶ架け橋

四節:「偏屈王」=「夜は短し歩けよ乙女」

 

 

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